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[荒井学長通信No.8] 五月病

荒井学長通信No.8
今年も新1年生が入学してきました。82名の新入生です。高校時代をまるまる3年間、コロナ禍のなかで過ごしてきた世代です。入学式直後の彼ら彼女たちの表情を見ていると、「さあ、これから大学生活だ!」と言わんばかりの、ワクワク感一杯の笑顔がとても印象に残ります。

高校では、満足に部活動もできず、修学旅行にも行けず、クラスメート同士のわいわいガヤガヤもできず、ずいぶんと地味な青春だったのではないかと想像します。が、その分だけ、「トンネルを抜けた」ような、まぶしい期待と何かを達成したいという前向きの意欲を膨らませています。彼ら彼女たちは、これから本当に待望の青春を築いていくのでしょう。背後から、あるいは側面から、そんな彼ら彼女たちを心から応援したいと思います。
荒井学長通信No.8
入学式を終えて、そろそろ1ヶ月が経とうとしています。桜のシーズンが過ぎて、新緑のシーズンを迎えます。木々の緑が一段と映えていく季節です。5月の連休がもう目の前です。

私たち団塊の世代が学生だった頃、「五月病」といわれるメンタルな病が流行ったものでした。一生懸命に頑張って勉強に勉強を重ねて、ようやく大学に入学して、さあこれから大学生活だという場面になって、「わたしは何をしたら良いのだろう?」と目的を見失う精神状態に見舞われます。目標を作って、何かに打ち込み、熱中しようとしますが・・・・。しかし、何をやっても心は満たされません。

実は、私自身が学生時代にその「五月病」に見舞われてしまった当人でした。授業に出ることもできず、下宿に籠もる日々でした。目標の喪失、意味の喪失、虚脱感、不安感、憂うつ、虚しさ、虚無感、自己喪失、ニヒリズム、・・・・。このような状態が数年間続いたものでした。入学当初は工学部の学生でしたが、その2年後には中途退学して、文学部に入り直して哲学を勉強することにしました。

私の人生にとって「五月病」は人生の大きな転機をなすものでした。「人生の意味喪失」という体験は、無意味どころか、私の人生にとって大きな意味をなすものになったのです。

私はその後「哲学」を修め、いまは大学の教員として、入学してきたばかりの若い学生たちに「人間学」を講義しています。自己喪失、人生の喪失、絶望、そんな経験はできることならしたくないものです。しかし、仮にそのような人生に見舞われたとしても、それも後々の人生において非常に大きな意味をなしてくるのです。

「成功」か「失敗」か、「勝ち」か「負け」か――人生を「勝ち負け」の価値観で測る人がいます。しかし、「成功」だけが人生ではありません。「失敗」も人生です。病気、災厄、失恋、不幸、別離、障がい、死、・・・・、そこにも人生の大きな意味があるはずです。

私が「人生の師」としている思想家に、「ヴィクトール・フランクル」という精神医学者がいます。第2次世界大戦中にアウシュヴィッツ強制収容所を経験したユダヤ人医師です。主な著書に『夜と霧』、『死と愛』があります。

この人の本に次のような言葉があります。

「どんな人生にも意味がある」
「偶然は存在しない。偶然と思われる出来事の背後には、何か深い意味がある」
「この人生には、将来あなたを待っている何かがあり、誰かがいる」

私を救ってくれた言葉です。
鳥取看護大学
学長 荒井 優
(2023年5月15日掲載)

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